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木場と山際家と亀倉家


  
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  今週末も木場亀倉展。武田邸の番人3週目となる土曜日。

  亀倉家の祖、木場とかかわりのある人が、またまた浮かび上がってきた。子孫の亀倉芸さんがもってきた。

  さかのぼれば、木場に住み、長く木場小学校の教頭だった宇之七さん。

  過去の記録、閉校記念誌の卒業写真には、常に最前列にならんでいる人。

  たぶん、この人を木場につれてきたのは、吉田の長善館に学んだ山際家。宇之七も同門であるから山際七司が縁にちがいなく、もっとも七司は幕末から明治中期の人ゆえに、その子敬雄の時代か。

 当時の木場村は、近郷でも大村で、村役場が割烹勇吉の隣にあったゆえ、学校は必須。
 晩年、亀倉蒲舟と親交があった丸山和五郎氏も、わが先祖芳忠も大正期の卒業写真に宇之七さんと一緒に写っている。
 たぶん、薫陶のげんこつもらってると思う。

  (我が家と、山際敬雄に関連する記事はこちら)


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  山際 七司
(やまぎわしちじ)
1849(嘉永2)年1月20日〜1891(明治24)年6月9日
木場村の代々の庄屋の長男に生まれた。
1868(慶応4)年の戊辰戦争では旧幕府側の米沢藩に従い従軍し、1870(明治3)年に父の跡を継いで大河津分水工事の用弁係になる。その後英国流の立憲主義に関心を寄せ、1878(同11)年に有志と自立社を結成して、県会議員となり、そして、県内の国会開設懇望(こんもう)協議会を組織し、国会開設の建白書を元老院に提出したり、自由党の結成に加わり幹事となったりした。1883(同16)年の高田事件、1885(同18)年の大阪事件で拘留され、1887(同20)年には保安条例で東京退去を命じられる。1890(同23)年の第1回帝国議会選挙で新潟県から衆議院議員に当選しましたが、その翌年に病死。
(以上略歴、新潟市ホームページから)

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  私の作業場。お茶を出すところ。

(たんつぼは・・・)

  今日もまた、武田家移築の際に、寝所に陶器の傘を寄贈した人や、亀倉彬氏の作品を10万円で買った人の縁者など、文書にするとくどいが、面白い人たちがやってきた。

 小川英鳳が、親戚のたまとこやに疎開していたというのもおもしろい。
 吉田の鎌鍛冶、亀倉伝三という線もおもしろい。

 ああ、おもしろい。



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by ikarashikunosuke | 2015-08-30 05:59 | 越後・新潟・木場のこと | Comments(0)
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